いつか、誰かのために

 タイトルだけ思いついて中身がないのだけれど書きながら考えていく。読み返すと論理と言葉の使い方の手抜きがなかなか恥ずかしい。


 まあなんというか誰かのために何かをするというのは気持の良いものだ、というのがそこそこ同意を得られるような話、なのだろうなあと思われます。こんな回りくどい書き方をするのは、誰かのためにやっているというのが建前で、実際のところ誰の役にも立たないことをやって自己満足に陥ってたり、逆にそれに陥らないように気をつけることで行動する際にためらいが起きたりするから。そして、そのためらいを起こすよりならば、考えずに行動したほうがよいというカウンターの論理もあるわけで。それに対して......の無限ループ。まあこれについてはケースバイケースで語るべきことを一般論としてまとめようとしてるから変なことになっているのでしょう。一般相対性理論で水の分子間力を求めるような感じ。


 閑話休題。誰かのために何かをして、それが確認できて嬉しい。というのはまあ社会的に認められたと感じるから。社会的といってもそれはその誰かにとっての話でしかないのだけれど。この年まで生きてみるとコンプレックスのない人間、隣の芝が青く見えない人間はなかなかいないものだというのを実感できてくる。それで誰かに認めてもらうというのは自分の評価ではなく、他人が言っているのだから尺度としての正しさの度合いが違うもの。ちなみにこれが逆に触れてしまうと親しい人にどれだけひどい事をして、許してもらえるかを試したくなるという話になってくる。心当たりがある人は手を上げよう。


 聖者と言われるような人間というのは、そういったことをまったく考えずに他人のために何かできる人なのか、と考えている。ただ、それは他人のためには良くても、社会にとってはあまりよくないのかもしれないなあとも。皆が聖者であるならば、それでもいいのだろうけれど、聖者が少ない状況では資源のダンピングに近いから。それよりならば他人の欲求を煽ったほうが色々うまく回るだろう。

 
 反面教師、人間万事塞翁が馬、イヌも歩けば棒に当たる。ことわざ、語り草としては色々話はあるわけで、誰の行動が誰のためになるかというのはイマイチよくわからない。明日の誰かのためなのか、ドラえもんがいるような未来のための行動なのか。
 そもそも誰かって誰なんだろうねえ、とここまで書いておいてなんなのだけれど。一番わかり易いのは自分自身なのだろう。


なんか、ブギーポップのあとがきみたいになったな......